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春告魚

「春告魚」の別名のとおり、かつての北海道の春はまさしくにしんで始まりました。
米にかわる松前藩の重要な収入源で’みがきにしん’や’かずのこ’は、北前船で本州に運ばれました。
”蝦夷地江差の春は江戸にもない”といわれるほど、にしん漁にわいた松前地方ですが、次第に漁場は北上し、明治から大正にかけては後志沿岸が千石場所となりました。
史上最高の漁獲高を記録したのは明治30年(1897)で、130万石、およそ30億~40億匹ものにしんを獲ったことになります。
にしんの漁期は春ですが、’みがきにしん’や’ぬかにしん’にしておくと日持ちがするため、開拓当初の北海道では貴重なたんぱく源でした。
道内の内陸地方では何箱も’みがきにしん’を保存しました。
焼いた’みがきにしん’は、良い香で食欲をそそるため、夏の食卓には欠かせない存在でした。
また、関西では’にしんそば’など独特の料理に生まれ変わりました。岩内町はもとより、北海道繁栄の礎を築いたのはにしんだといっても過言ではないでしょう。
そして、みがきにしんやにしんそば、昆布巻きといった、すばらしい食文化をわたしたちに残してくれたのです。

鰊の歴史

1716年岩内に請負人あり
1751年岩内・古宇地方で始めてミガキニシン、胴ニシンを製しこれらを福山を経て北陸地方に送る。当時の価格はミガキ1本(28把、1把は100尾)金1分(1両の1/4)胴ニシン1本(2貫目)銭25文。
1807年岩内・寿都地方が追ニシンのため、賑わった。
1847年このころ岩内郡のニシン製品の価格は、建網、走ミガキ1本(2400尾入)金1分3朱と銭12文5、中ミガキ1本金1分と銭50文、後ミガキ1本銭100文、胴ニシン100石金170両、搾粕100石金210両。刺し網、走ミガキ1本金2分と銭50文、中ミガキ1本金1分と銭100文、後ミガキ1本銭120文、撰カズノコ8貫金1分と銭70門、白子100石金210両、笹目100石金160両。
1852年岩内で初めて建て網を使用す。当時刺し網、笊網および網苧は越後国宮川より移入いていたが、建て網使用後は網苧の多くは仙台永沢より移入する。
1873年初めて石炭を燃料としてニシン粕製造(薪使用のため付近の山林荒廃す)
1874年後志各郡ニシン大漁
1879年ニシン製品価格
■胴ニシン100石  小樽670円、搾粕100石 小樽760円余、美国510円
■ミガキ100石 小樽784円余、美国620円
1885年忍路、浜益、積丹、厚田、礼文、余市、高島、古平、美国、岩内の諸都にニシン漁業組合結成される。
1887年ニシン粕の相場は17~8年ごろの2倍の700円前後に高騰。
1891年後志沿岸得に豊漁で、全道春ニシンの漁獲最高100万石を突破し、以後明治36年までいわゆる100万石時代の大漁時代となる。
1897年北海道のニシン漁獲量は、当漁業史最高の1298369石(北水試調)
1903年岩内漁業協同組合は岩内郡大浜地先にニシン定置7カ統の免許を受け、これを組合員に行使させ、その行使料を組合運営の賦源とした。(大正5年ニシンの区漁のため権利を放棄)
1906年北海道庁は岩内港修築財源として雷電入合漁業31か統のニシン建網を解除し、これを岩内漁組に付与し、その漁業収入より毎年15000円を岩内町に提供。
1935年岩内にてミガキニシンの2本どり加工始まる。

岩内の変化に富んだ海岸線には、義経やアイヌにまつわる伝説の数々が残されています。
江戸時代初期には、布教造像僧として名高い円空が磯谷や雷電に庵を結び、ナタ一丁で彫った仏像が、現在も磯谷の海神社に祭られています。
岩内の初代場所請負人・岡田弥三右衛門は、にしん漁の漁法発展に努め、各種の公共事業にも積極的に取り組んだ伝説的な人物でした。
岩内はまた、文学や絵画の世界でも知られています。作家・水上勉の社会派推理小説「飢餓海峡」では、岩内大火や旭温泉が舞台となりました。
そして、絵画の世界では、有島武郎の「生まれ出づる悩み」のモデルとなった木田金次郎がいます。
木田画伯は、岩内で生まれ、生涯を岩内で過ごし漁師を続けながら数々のすばらしい作品を残しています。
清涼にして繊細な美しい景色、そして生き生きとした街の魅力が、多くの芸術家に刺激を与えたのでしょう。 

みがき鰊レシピ